なんにも感じない、という感じ方

”だいじょうぶ”、が口癖の人は、実はぜんぜん大丈夫じゃない。

心の中にさびしさやストレスをため込んでしまっている。という記事を読んだことがありますが、それはそうだろうな、と思いました。

これと似たようなことかな、と思うのですが、フォーカシングで、身体の感覚をさぐるときに「何にも感じない」というときがあります。

フォーカシングとは、心理療法のアプローチのひとつで、体の内面に注意をむけて、身体の感覚(フェルトセンス)をみとめ、判断せずにただそのままに感じ、描写し、よりそう、といったアプローチをとおして、身体から情報を引きだす方法です。身体は、潜在意識とつながっていて、驚くほど豊かにその本人にとって必要な知恵を秘めています。

 

「何も感じない」というのは、実際は、「何も感じない、と感じている」だけのことがおおいです。

身体の感覚に注意をむけて、繊細な変化を感じとることに慣れていない場合もありますが、

心はわりとまわりの変化に対して敏感に動くものなのに、ツルンとした板のように無機質に(←かつての私のフェルトセンスです)何にも感じない、というのは、あえてそうなるようにしている、ということ。

繊細な感覚のままでいたら、傷つくことにたえられない、だからもう感じないようにしよう、という防衛本能ともいえるでしょうか。

「とくに何にも感じない。わたしはそんなに繊細じゃない。ちょっとした嫌なことがあってもぜんぜん平気。」言葉にするとこんな感じかもしれない。

これは、かつてのわたしの場合では、「”胸の底に固く閉じた板”でフタがしてある」というイメージで、後であらわれました。

どんな状況でかというと、

「何にも感じない」と思ったあとに、あっそうじゃない、もしかしたら、これもフェルトセンスなのかもしれない、と思い直し、

「胸のなかに、”何にも感じない”という感じがあります。」と言ってみる。

そうすると、ツルンと無感覚だった胸の底で、カタっと何かが動いた感覚があった。

「何か、かたい…板のような?白い。。。何かが、カタっと動いた感じを感じています。」

とさらに描写すると、そのフェルトセンスは、みるみるうちに、白いつるんとしたドアのようになり、それは胸の底にフタをするように置かれているのがわかった。

このドアをあけたところには、壮絶な景色がありました。ちょっとグロい。

実際のフォーカシングでは、イメージはちょっとずつあらわれて、ゆっくりと進むのですが、、そこになにがあったのかを簡単に言うと、、

※虫や傷が苦手な方は、この次の青色の行を読みとばしてほしいです。

 

 

膿んだ傷口から大きな虫がでてきたんです。

 

 

そして、その先には、凍りついた深い氷の洞窟がありました。

ここを溶かしていくのには、一回では終わらず、数回のフォーカシングが必要でした。

 

凍りついた水は、象徴でいうと、凍りついた感情、でしょうね。

 

(ここまで、イメージを中心に書いたのですが、実際のフォーカシングは、イメージだけで進まず、そのつど丁寧に体の感覚にもどりながら進みます。)

 

フォーカシングをして、モヤモヤとしていたフェルトセンスが変化して、あざやかに何らかのメッセージを伝えてくるとき、人の心の仕組みってけなげだなぁと思います。

生き抜くためにいろんな擬態をとっている(←もっとぴったりの表現がまだみつからない)。

でも、その擬態が必要じゃなくなったときには、そうするしかなかった感情をしっかりと受けとめて解放して、いまの自分に心地よい、あたらしい習慣をつくっていいんですよね。

そうしなければ、過去に自分を守っていた方法が、逆に今の自分を苦しめることにもなるから。

 

何にも感じない、ように頭ではしていたとしても、実際は身体には症状がでたり(わたしの場合はアトピー)、

心も重たさがあったり(軽くなったからあとで気づいた)、

ムリをしているんですから、本当に強いわけではなくて、もろいです。

お腹の底からわきあがる、快、不快、の感性を素直にみとめ、ムリな我慢をせず、本来の自分であれたとき、人はしなやかに強くなれると思います。

 

 

 

Share on FacebookTweet about this on TwitterEmail this to someoneShare on Google+

コメントを残す

*